ボクは東北の田舎出身なのですが、
初めて県外で働いたときのお話です。
週末に会社の先輩と一緒に焼肉屋に行きました。
美味しいお肉とビールに舌鼓を打っていると、小学生のグループが入店してきました。
みんなで自転車に乗り、学校名の入った大きなカバンを引っ提げていることから、部活の帰りか何かだと思います。
ボクは目が飛び出るほど驚きました。
小学生だけで焼肉屋に行くなんて、自分の感覚ではあり得ないことだったからです。
この衝撃は当時から15年以上経っている今でも思い出せます。
(え?小学生だけで焼肉屋に行けるほど、こっちの子どもたちはお金を持っているの?!)
ボクが生まれ育った地域では「貧乏が当たり前」でした。
家の窓が割れてもサランラップを貼って補修する。
新聞が購読できないので、学校の課題をクリアできない。
お金が積み立てられないので修学旅行に行けない子がいる。
親が刑務所に入っている。
万引きによる補導も日常茶飯事。
しかし、これらの日常を「不幸」と感じたことはありません。
「貧乏である」と認識したこともありません。
なぜなら、自分も含めて、みんなそのような環境で生きているからです。
それが当たり前なのです。
貧乏自慢や不幸自慢をしたいわけではありません。
本当にそれが当たり前なのです。
このような環境で生きてきた人間が、
小学生だけで焼肉屋に来るのを目撃したときの衝撃と言ったら半端ではありませんでした。
これまでの価値観が一気に塗り替えられた瞬間でした。
自分の生まれ育った環境は「貧乏だった」のだと。
たしかな「格差」を思い知ったのです。
思うに、
「人間は他人と比べて劣っていると認識した瞬間に貧乏になる」
のだと思います。
みんなポケモンを持っていなかったら何とも思わないですよね。
でも、自分ひとりだけポケモンを持っていなかったらどうでしょう?
みんなスマホを持っていなかったら何とも思いません。
でも、自分ひとりだけスマホを持っていなかったら?
ボクの生まれ育った環境には問題があると思います。
ただ、それでも幸せでした。
みんな持っていないからです。
そのような意味では、環境がどうあれ、幸福な幼少期を過ごしたのだと思います。
でも、いまの子どもたちは、SNSやネットで「格差が可視化」されています。
それってちょっとした地獄ですよね。
格差があることが問題ではありません。
人生において絶対的な平等なんてありえないからです。
持っている人と持っていない人がいるのは自然なことです。
仕方ありません。
ただ、格差をまざまざと見せつけられると意味が変わってきます。
他人と比べるという地獄。
格差が可視化されるという地獄。
難しいとは思いますが、比較はほどほどにした方が良いと思います。
意図的に情報をシャットアウトすることも寛容です。
心まで貧乏になる必要はないのですから。